リトアニアの旅

六千人の命を救った勇気ある外交官、杉原千畝との出会い

それまでリトアニアと言われれば、バルト3国のうちの一国という程度の知識しかなかった私が、日本から9000Kmも離れた遠いヨーロッパの小国・ リトアニアで、行き場を失った6000人余りのユダヤ人の命を救った勇気ある日本人外交官・杉原千畝のことを知ったのは、1999年9月のことだった。

その 2月、全国を公演して廻るリトアニア国立民族舞踏団(松山での公演は、愛媛県国際交流協会が主催)の宿舎として提供くれないかという知人の要請で、我が古家を提供したのがきっかけでリトアニアへ撮影旅行を計画、9月9日出発関西空港を飛び立ちフインランドのヘルシンキを経由してリトアニアの首都ビィリニュス国際空港に到着、以前、日本でお世話をした二人の劇団員の女性が出迎えてくれた、先ずはタクシーでホテルに落ち着いた、街の風景はとても癒されました。

翌日から通訳をお願いしていた日本語の堪能な女子大生とチャーターした車でリトアニア各都市を訪問、途中首都から100㎞ほど行くとカウナス市に戦前、日本領事館が有ったところが今はすぎはらハウスとして、昔のままで管理されていると案内をしてくれた。

話しは、第二次世界大戦勃発の翌年、ポーランドに住むユダヤ人がナチスの迫害を受け、当時リトアニアのカウナスにあった日本領事館に救いを求めてきたという。

彼らの目的は、日本の通過ビザを受けたのち、シベリア鉄道ルートで日本に渡り、そこからアメリカを目指すというものだったが、その多くは「行くあても金もない」ビザ発給の条件を満たさない者ばかりだった。

そんな彼らに、当時ドイツの同盟国である日本は通過ビザ発給の許可など出すはずもなかったが、領事代理の杉原は独断で特例を認め、職を賭して彼らに通過ビザ発給を許可し、6000人のユダヤ避難民を救ったという。

この話しを聞いたとき、私は胸がしめつけられると同時に、何かで頭を殴られたような衝撃を受けたことを、いまでも昨日のことのように鮮明に覚えている。

というのも(私事ではあるが)、この時期私は、複雑に絡み合う人間関係のなかにあって、まるで迷路をさ迷っているかのような日々を送っていたのだ。これまで自分は一体何をしてきたのだろうか。与えられ言われたことだけを守るのが精一杯の中間管理職。業務遂行のためとは言え、どれほどの人間を踏みつけ傷つけてきたか。

杉原のような決断力や優しさの微塵ももちあわせていない私は、このとき、過去を悔やむことしかできなかったのだ。

「リトアニアには親日家も多いですよ。杉原の足跡をじかに触れてみては?」と私に向けられたハウスの管理人の言葉は、正直言って苛立ちを覚えるものだった杉原の名前も知らない無知な日本人、と馬鹿にされたことへの苛立ち。

しかし、それも束も間、私の心を微妙にそれまでとは違う方へと引き込みはじめたのだった。

彼らの言葉は、微かではあったが、迷路の出口を示す輝きを 映しだしてくれていたのだ。いまからでも遅くはない。いまからでも何か自分にできることはある。こんな思いに駆られた私は以来、リトアニアの風に吹かれ土に触れるたびに、彼らの話しに衝撃を受けたとき以上に、杉原の勇気ある生きざまに心酔してしまい、ついには、この地に杉原の功績を称える何かを残したい、と新たな夢を膨らませるのだった。

そんな折、首都ヴィリニュスの新興商業地に「杉原通り」が設けられていることも知り、訪れて見たものの、「杉原通り」は誰の目にも、ただ殺風景な「通り」にしか映らなかった。残念でならなかった。

早速、私は杉原を敬愛してやまない日本の有志たちに、約400mの街路の桜並木化を提案し、その1年後の2001年10月2日、百数十名の有志とともに運び込んだ桜の苗木を、第一回植樹祭と銘打ち、「杉原通り」と「ネリス河畔」、そしてカウナス市の「旧日本領事館」の三ケ所に行なったのだった。

そして、2003年4月24日、「旧日本領事館」から見える、古都カウナス市のネムナス河の中洲・ネムノ島公園で第二回目の植樹祭を行なうことができたのも、杉原千畝の偉大な功績によるものだと、ただただ感服するばかりだった。

リトアニアの概要

正式名称
リトアニア共和国
リトアニアの国名は、雨“(Lietus)”に由来されている、首都はヴィリニュス
国土面積
6万5200㎡
地勢
全般的には大地は平坦であるが一部の地帯にのみ隆起がある南東部と北部には、氷期に形成された地形と丘陵が見られ、海岸線には砂丘が拡がる自然は、大小約3000の湖と湿原と森林が特徴
人口
370万人
人口構成
リトアニア人(80%)
ロシア人(9%)
ポーランド人(7%)
ベレルーシ人(2%)
言語
リトアニア語
宗教
大半がカトリック
通貨
リタス

歴史的背景

隣接するラトヴィアやエストニアは、中世を通じ数世紀に渡ってドイツ騎士団やその他の勢力の支配下にあった。
それに対してリトアニアは、14世紀の半ばリトアニア大公のもと大公国を形成し、その公国はバルト海からモスクワ、一時は黒海沿岸まで拡がっていた。
1386年に行なわれた大公の孫ヨガイラとポーランド女王ヘドヴィクの結婚は、大きな影響力をもたらしていたのだったのだった。大公家とともにリトアニア国民もカトリック教徒となり、このときに成立したリトアニアとポーランドの連合はその後400年以上もつづいた。
数世紀に渡り、リトアニア地方はポーランドの一州となり、1795年に第三次ポーランド分割ののち、ロシアの支配を受けることになる。
第一次世界大戦中、リトアニアはドイツ軍に占領されたが、1918年、共和国として独立した。
その後ベラルーシとリトアニアの地域に社会主義ソビエット共和国が成立したが、ジエリゴフスキ将軍率いるポーランド軍が、赤軍をリトアニアの首都ヴィリ二ュスとその周辺から駆逐した。

この歴史的な町は、その後数々の戦いが繰り返されつつも、1939年までポーランドの支配下にとどまる。そして、1939年独ソ不可侵条約に基づき、ソ連軍リトアニアに駐屯し、1940年リトアニアは連邦構成共和国となるのだった。
以後、大衆の力で勝ち取ったソ連からの解放に至るまでの歴史的背景は、下記年表の通りである。

1987年
ペレストロイカを支持する運動「サユディス」創設。
1990年
多くの国民に支持された「サユジス」は30万人もの人々が参加する大衆デモへと成長し、連邦離脱宣言に至るものの、経済制裁回避のために宣言を引き下げる。
1991年
モスクワにおけるクーデター失敗後、ソビエット国会評議会はリトアニア独立を承認、日本政府もこれに追従。

杉原千畝の歩み

1900年
岐阜県加茂郡八百津町で生まれる。
1917年
愛知県立第五中学(5年制)卒業後、京城医学専門学校を受験するが放棄。
京城(現・ソウル市)に一年間滞在する。
1918年
京城より上京、早稲田大学高等師範部(現・教育学部)・英語科予科入学。
1919年
早稲田大学予科を終了後、早稲田大学本科に入る。
この年の7月・外務省留学生採用試験受験・合格・外務省ロシア語留学生としてハルピンに渡る。
1920年
早稲田大学中退後、歩兵七九連隊九中隊に一年志願兵として入営。
1922年
一年志願兵除隊後、日露協会学校(後のハルピン学院)特修科に通う。
1923年
日露協会学校特修科を終了後、満州里で語学留学を続ける。
1924年
外務省書記生に採用され、満州国外交部の職員となる。
1926年
日露協会学校講師に任命される。
1933年
満州国側書記官に任命される。
1934年
満州国外交部理事官、政務局ロシア科長兼計画科長に任命される。
1935年
満州国外交部依願退職後、外務省大臣官房人事課勤務を任命、外務省情報部第一課勤務を命ぜられる。
1936年
日露漁業交渉の通訳官としてペトロパブロスクに着任、半年後モスクワ日本大使館二等通訳官に任命される。
幸子と結婚。
1937年
ソ連より杉原の入国拒否通告、後しばらくして、フィンランド日本行使館へ転勤。
1939年
リトアニア日本領事館・領事代理に任命される。
1940年
領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民に通貨ビザを発行。
外務省より領事館退去命令。その後、プラハに着任。
1941年
ルーマニアのブカレスト公使館勤務任命、一等通訳官を任命される。
1943年
ルーマニア公使館三等書記官に任命。
1945年
ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。
1946年
ブカレストを発ち帰国の途につく。
後に本籍地を藤沢市に移し、東京PX(現松屋デパート)の日本総支配人や、科学技術庁を始め数々の会社等の役員を勤める。
1986年
鎌倉にて永眠(享年86歳)

第一回 桜植樹祭

2001年10月2日
リトアニアから、アダムクス・リトアニア大統領、クジス圏知事、ヴィリ二ュス市長、リトアニア・ユダヤ協会会長、日本からは、内藤リトアニア全権特命大使、早稲田大学副総長、杉原千畝の妻、幸子夫人、有志百数十名が参加され、小雨の中、午前九時に顕彰碑除幕ではじまり、大統領はじめ関係各位による祝辞や杉原の功績を称える賛辞がつづき、幸子夫人がこれに答礼されたあと、桜の苗木(幹寸2~3cm,高さ約150cm)の植樹が行われた。
式典の締め括りには、小学生たちの手によって折られた折り鶴の付いた風船が空高く放たれ、アクロバット飛行の世界チャンピオンの妙技が披露された。

そのとき、それまで小雨模様だった空に青空が見え始め、まるで天上から杉原の感謝のメッセージが発せられたかのような光景に包まれ、湧き起こった歓声のなか閉幕する。

第二回 桜植樹祭

2003年4月24日
古都カウナスのネムナス河の中洲のネムノ島公園にて、リトアニアからカウナス市長、日本から金安臨時大使、日本さくら交流協会会長代理等の祝辞が述べられた後、両国歌の演奏とともに、地元の小学生たちが手にする、黄・赤・緑のリトアニアの国旗をイメージする風船が空一杯に放たれ、大勢のカウナス市民が見守るなか100本の桜の苗木が植樹された。
ただ、このとき準備した苗木は、搬入手続きの手違いから、計画よりも早く(式典の一月前)日本から運び込まれ、当初の予定は、式典用の苗木数本を残し、残りはすべてカウナス市職員のご厚意で事前に植えていただき、式典当日まで手入れしていただくというものでしたが、この年は現地の関係者も予想不可能な何十年ぶりかの寒波に見舞われ、寒波は4月中旬までつづいた。
我々は当初の予定を急遽変更せざるを得なくなり、ある程度寒波が緩むのを待つため地下倉庫で苗木の保管を行うことにしたのですが、その甲斐もなく、植樹後、若葉を見ることなく一部の苗木を枯らしてしまいました。
この場をお借りして、ご協力してくださった方々にお詫びを申し上げるとともに、今後二度とこのようなことがないように、これを教訓にし、皆様方の心こもった苗木を大切にしたいと思います。

尚、第一回桜植樹の顕彰碑は、杉原の母校である早稲田大学のご厚意とリトアニア政府の寛大なる計らいにより、未来永劫杉原の功績が語り継がれ、ヴィリニュス市民をはじめ世界中から訪れる観光客に見守られるようにとの願いを込めて、ヴィリニュス市で一番大きなリェトゥヴァホテルのそばにある桜公園内にウクライナからの赤御影石30トンの原石を運び縦・横2メートルの石碑を建立することができました。
企画発案に参加したものにとって、これほどの歓びはありません。
この場をお借りいたしまして感謝の意を表すとともに、この植樹祭が今後リトアニアに限らず、世界中に広がるように努力することを誓い、この思いを関係者の方々に送る感謝の言葉にかえさせていただければ幸いです。